2006年03月01日

長寿番付に挑戦!廖化

こんにちは。
今日は、前々回のもう一つのテーマ「長寿」つながり?で廖化について書きます。
 当時は今より当然寿命も短いし、また、戦場に出る武将たちはなおのこと・・・そんな中、長生きした武将としては、81歳まで生きた張昭とか、推定80歳と考えられる程イクなどが居ます。老将・黄忠は年齢不詳(!)。呉軍に突撃して玉砕した際は、70代半ばだったと思われます。
 そんな中、誰が最長寿か?
 
 少なくとも演義の上では「廖化」です。黄巾賊出身で関羽に仕えるところから、蜀の滅亡まで。80年間に渡って登場します。これ、まともに考えると100歳くらいです。これには諸説あって、同姓同名別人説もありますが、多分、演義で話を創作する中で、廖化の登場するシーンが多くなってしまって寿命が延びてしまった、つまり、日本の古代の天皇みたいな感じだと思います。ただ、史実でも、80歳は超えていたと思われます。
 ただ、さすがに80歳を超えて戦場で活躍というのは、ちょっと無理があると思います。黄忠もですが、70以上で戦場に立つのは、いくらなんでも・・・・。多分、というか、司令室みたいなところとか、後方で指示を出すくらいだとは思われます。関羽、張飛その他の豪傑においても、戦場で実際に戦うのは、大体50代が限度だと思われます。
 その意味で、ジャイアント馬場をはじめ、プロレスの御大陣には敬服します。今なら、天龍源一郎、長州力、藤波辰爾・・・50代でも活躍し続ける彼らは、疲れないのでしょうか。僕は、5分くらい小走りすると疲れますので(笑)。逆に言えば、50代でもプロレスをやれるということからして、三国時代も50代までは実際に戦闘することが出来たのではないかとも思いますが・・・。
 さて、話を廖化に戻しますと、まさに「地味ー」です。横山三国志・演義では関羽が麦城で孤立した際、劉封、孟達に救援を求めて断られ、さらに成都まで行っています。正史では、一旦呉に投降した後、自分が死んだという偽りの情報を流すという廖化らしからぬ(笑)計略を用いて蜀に戻ってます。
 その後、蜀において武の柱となり活躍しますが、廖化が主力になること自体、蜀の人材不足を表しています。惜しかったのは、北伐において司馬懿をあと一歩に追い詰めた際、冠につられて逃したこと。あれで司馬懿を討ち取っていれば、蜀の英雄となったのみならず、現代に至る中国史が変わっていた可能性があります。その意味では歴史を左右しうる人物だった、というのは面白いですね。諸葛亮は「関羽だったら司馬懿の計略を見破って追いついて討ち取ったろうに」と嘆きますが、関羽と廖化を比較すること自体、かなりの無理があります(笑)。
 さて、その後も、蜀を支え、蜀滅亡時、少なくとも80歳を超えていたのにもかかわらず、剣閣で姜維とともに鍾会と互角に戦ったのは、立派だと思います。蜀滅亡直後に死去してますが、多分、はりつめた気が抜け、はっと我に返ったら、80歳を過ぎていた体にどっと疲れが出たんでしょうか・・・。
 蜀創設時の名将と比べると小粒ではありますが、後期・衰亡の蜀を支えた功績は大きいと思います。

 なお、本当の最長寿は左慈をはじめとする仙人たちかも知れません(笑)。僕の最大目標は、約130年後の「次の次」のハレー彗星回帰を見ることです。高校1年のときのハレー彗星はしょぼかったので・・・(笑)。
posted by きよくん at 15:10| 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする