2006年03月27日

三国志占いと司馬氏

 今日は、アオさんのちょっと前の記事にあった三国志占いをやった結果について・・。
 
 それによると、僕は・・・続きを読む
posted by きよくん at 17:29| 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月23日

「ガサ入れバトン」

 ちょっと忙しかったり本業でいろいろあったりで更新が空いてました。
 さて、今回は劉禅の続きは後回しで、アオさんから「ガサ入れバトン」なるものを受け取ったのですが、正直困りました(笑)。現代人にこのような人物がいるのかと驚かないでください。多分驚くでしょうけど・・・

続きを読む
posted by きよくん at 21:58| ○○バトン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月17日

劉禅は名君という仮説

 さて、今回は、蜀ファン、劉備ファンには触れてはいけない恥部、阿斗くんです。
 ありとあらゆるアホ扱い。成都の武候祠にも祀られてませんし、1700年たった今の中国でも馬鹿の代名詞。かの毛沢東は「人民は阿斗になってはならない」と演説してます。
 しかし本当にそうか?内容的な評価はまたの機会にして、ここでは、一つのデータを・・・
(ざっと調べたので漏れ、間違いがあるかもしれませんが、参考程度なのでご容赦を)

続きを読む
posted by きよくん at 18:49| 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月14日

藤堂高虎的生き方

 今日は、藤堂高虎について。
 決戦Vで好んで(最も多いではない)戦に連れて行った武将は、蒲生氏郷・アマリア・そして藤堂高虎です。弓兵隊として援護射撃させてました。
 ただ、藤堂高虎は、一般に評判悪いですね。7回主を変えているのがその理由で、「その時歴史が動いた」でも、主を(コロコロと)変えて出世していったという扱いでした。とくに評判が悪いのが、豊臣家をさっさと見限って徳川家康についた(とされる)こと。このため、豊臣恩顧の大名から嫌われたのは言うまでもないのですが、さらに、家康のお気に入りになったことにより、徳川譜代の武将からも面白くない、と思われました。
 しかし、一つの主にずっと仕えなければならないという価値観は、諸説ありますが、必ずしも当時の主流的価値観ではない(と思います)。生き残るため、出世するために主を変えるのは別に珍しくもないのですが、高虎の場合、一番目立つ・露骨に主を変えたという点で批判されるのでしょうか。また、どんどん出世したのでねたまれたところもあります。
 そもそも、主に正当に評価してもらえなければ、正当に評価してもらうところに移動するというのは、古来、そして、今でも当たり前のことで、終身雇用が崩壊しつつある現代、高虎の身の処し方は高く評価されるべきと思います。主を変えたことでうまくいくかわからないのに行動に移すという行動力、さらに悪評を気にしないという心の強さ、また、新しい主の元で実力を発揮してやるという気概と自分への自信・・・。これこそ、現代サラリーマンに欠如しているものではないでしょうか。さらに言えば、豊臣家に対しても内部ではいろいろあって含むところがあったみたいですし、そもそも裏切りといえるかどうかも疑問です。
 ただ、理由はなんであれ、主を変える性質が250年受け継がれたのでしょうか。戊辰戦争で真っ先に幕府を裏切って官軍についたのが藤堂藩だったのは笑える(ある意味笑えない)話でしたが・・・。
 さて、僕も、正当な評価をしてくれるところに「藤堂高虎」しちゃおうかな・・・(笑)。
posted by きよくん at 14:06| 戦国大名 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月06日

ギエンの野望 ギレンの野望ではない(笑)

 最近三国志ネタ続きですが、ご容赦ください(笑)。
 今日は、趙雲殿からバトンを引き継いで、魏延文長殿について。
 あっ 土曜日に、ケーブルテレビのチャンネルNECOでアニメ三国志を一気に放送してましたが、疑問点が多々あり。史実ごちゃごちゃ。とくに、左慈が大活躍(!?)。あれはあれで、一つの作品ですけど・・・。
 さて、魏延ですが・・・かなり好きです。
 史実では別に悪人ではありません。楊儀との権力争いに負けただけで、蜀・劉禅に反乱を起こしたわけではありません。
 しかし、演義ではご存知のとおりの悪人です。推測するに、北伐での諸葛亮との意見の相違や、諸葛亮死後のごたごたで負けたことから、スーパーヒーローである諸葛亮を際立たせるための蜀陣営内での悪役、光としての諸葛亮に対する影とされたことが原因と思われます。その「諸葛亮は何でもお見通し」伝説の魏延に対する最初のあてはめは、まさしく、劉備の長沙攻めにおいて韓玄を倒して降伏してきたときの「反骨の相」の話です。しかし、他の主を見限って劉備陣営に帰属した武将は山ほど居ます。ちょっと後に降ってきて、魏延とともに蜀の主力となったのに、魏延とは違って諸葛亮お気に入りとなった王平なんて、徐晃と喧嘩して自分の責任を逃れるため魏を裏切ってきてます。
 ただ、この反骨の相の話は創作だとしても、諸葛亮と魏延の間はそれほどしっくりいっていなかったことはたしかで、これは、たたき上げの武人の魏延と、典型的学者の諸葛亮との肌合いの違いと言ったところと思われますが、さらに言えば、諸葛亮は魏延を使いこなすほどには器が大きくなかったと思われます。
 たしかに、孫権も知っているほど変人で性格に問題があったことは否定できませんが(笑)、関羽も張飛も性格に問題があったことから、それほど大きな欠陥とは思えません。むしろ、職人肌の一本気さの表れと考えます。
 真・三国無双4でも魏延が嘆いていますが(笑)、そもそも、親分肌の劉備は魏延を認め、魏延も劉備には忠誠心を持っていました。劉備が漢中太守に任命したことからしても、武将としての能力とともに、行政力(統率力)も高く評価されていたと思います。韓信を尊敬し、自分のことを韓信になぞらえていたことからも、武力だけの人間ではないと思います。太守をしていたのに、真・三国無双におけるあのキャラは何でしょうか?あれでは、太守どころか日常生活も出来ません(笑)。
 蜀への侵攻では主力として活躍、太守就任に先立つ漢中争奪戦では矢で曹操の前歯を折る(土曜日のアニメでは黄忠が矢をうったことになっていて魏延は登場すらしませんでした・・・)など素晴らしい功績です。南蛮においては諸葛亮の命令を忠実にこなし、わざと負け続ける命令も堅実に遂行し、諸葛亮に絶賛されています。 
 北伐においても王双を計略的行動で破って曹真が「うーん」と卒倒したり(笑)、司馬懿親子(+自分も)をおびき寄せたり、その作戦遂行力と武力は、カス武将ばかりになりつつあった蜀においてはかけがえのないものでした。
 子午谷経由で長安を急襲する策をとっていたら、ひょっとして蜀が勝っていたかもしれない・・・そう思うと、諸葛亮、やはり器が小さいのか(孔明ファンには申し訳ない(笑))。
それにしても、演義では孔明の祈祷を妨害したり、最後は馬岱に斬られて楊儀にふんずけられたり、散々です。その影響で今も中国では不人気ということを中国人から聞きましたが、どうせそうなるなら、楊儀なんかほっといて魏に降ってまた再度裏切るとか、劉禅との上表合戦なんかしないで速攻で楊儀を斬って漢中をのっとるとかしたら魏延が皇帝になり「ギエンの野望」となったかもしれませんね。なんか、魏延が皇帝って、ちょっと嫌な国ですが・・・(笑)。

 なお、僕は、ガンダムは第一シリーズについて山のようにプラモデルを作ったくらいで、その後はフォローしてません。「ヤマト」派でしたので・・・。
posted by きよくん at 18:08| 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月03日

若大将・趙雲

 前回の廖化=長寿ネタから若大将・趙雲に話を進めます。
 趙雲についても何度か書く機会があると思いますが、まずは、前回のコメントから続く「若作り」について。

 見た目と実年齢が違う人は今でも多いですよね。僕は実年齢の半分=高校生くらいに見られます。昨日は、自分のゼミの教材について、人数分を生協書籍部に注文に行ったところ、背広を着ていたにもかかわらず、「僕のゼミに所属する学生」と間違われ、店員に「勝手にこんな数の教材を注文していいんですか?先生の許可をもらってきてください」と門前払いされました。後で店長が来て平謝りでしたが・・・。

 さて、趙雲ですが、まず、魏ファンの僕としても、趙雲は姜維に匹敵するくらい好きです。客観的に見ても、蜀の中では、武力、戦略、人格面を総合すると、諸葛亮・関羽・張飛より上だと思います。そのまっすぐさたるや、コーエーの三国志シリーズでは、絶対に卑怯なことをしないという特殊な隠れプログラミングがされていたそうです。
 
 まず、ルックスは、正史によるとかなりの美男子で颯爽としたものだったとか。蒼天航路や三国無双の勇姿はそう的外れではないですね。他方、横山三国志のあの「山田太郎」がごとき絵は、少年向け漫画だとしても、お世辞にも二枚目とはいえません。あれはあれで味があるのですが。

 本題の若作りについては、一応、人名事典などでは、生没年が西暦157年(?)〜229年と書いてあるのもあるので157年生まれとすると、161年生まれの劉備より4歳年上。関羽より6歳、張飛より11歳上、諸葛亮よりは26歳年上です。ちなみに曹操・孫堅は155年生まれですのでほぼ同年代。黄忠は140年代後半生まれと推測されるのですが、ゲーム等のデータでは趙雲と10歳差ありません。おどろくのは、厳顔は、ゲームによっては、162年生まれ!趙雲より5歳年下です。
 趙雲が正式に劉備に従ったのは、劉備が袁紹のもとに落ち延びた際の西暦200年ですから、その時点ですでに43歳だった・・・これは意外です。劉備は大喜びで一緒に寝起きした(変な意味ではありません(笑))ということですが、37歳と43歳のおじさんたちだったということで、まあ、気が合う仲間が増えた、というところでしょうか。
 さて、趙雲の最大の見せ場である長坂の戦いですが、趙雲はすでに50歳だった!これは意外ですよね。阿斗を抱えて単騎曹操軍中を突破する!さらには夏侯恩を真っ二つ! その若々しい武将のイメージの趙雲が50歳・・・石田純一みたいです。
 
 赤壁の戦いの後、桂陽攻めでは趙範の兄嫁との結婚を断ります。その際、横山三国志では「妻よりも武士の面目を重んじる」とか言ってますが、すでに50歳・・・。趙統・趙広という息子が居ることからちゃんと結婚していたことは事実なので、趙範ごときと縁続きになりたくない(趙範はその後逃げ出してますし)というのが本音だと思います。
 さて、漢中侵攻戦では、老黄忠の副将となって、黄忠を年寄り扱いしてます。漫画上のルックスでは親子、祖父と孫と言った感じですが、実際は10歳ほどしか離れていなかったはずです。こりゃ、年寄り扱いされた黄忠も面白くないですね。
 蜀建国後、223年の劉備の死去後に行われた南蛮攻めの際には、66歳以上になっていたはずです。これは体にこたえます。魏延とコンビを組んでますが、年齢差約20歳。ほぼ親子です。諸葛亮の命令を無視して抜け駆けして手柄を挙げていますが、年寄りの冷や水で結構諸葛亮や多くの武将たちは「またあのおっさんが張り切っちゃって」とか言って困っていたりして・・・(笑)。
 さて、227年に始まる北伐、趙雲は70歳くらいです。黄忠が関羽とやりあった年齢を10歳ほど超えています。これは、メンバーから外されても仕方ないでしょう。サラリーマンだったらとっくに定年で年金生活です。それでも無理やり(笑)北伐軍に参加して、曹真軍を破ったりするのですが、相手が弱いのか、趙雲が化け物なのか。天水の戦いで25歳くらいの姜維にこてんぱんにやられても仕方ないでしょう。長年の疲れからか229年に死去してますが、72歳というのは、黄忠の推定75歳に迫るもので、武将としては長生きに入るでしょう。適度な運動(=戦い)と、質素なお食事が長生きした理由でしょうか。
 さて、なぜ趙雲が若いというイメージがあるかというと、やはり、漫画にあるでしょう。横山三国志では若くして登場し、その登場期間中、ルックスがぜんぜん変わりません(これは、ほとんどの武将に当てはまりますが)。白髪とか禿げの趙雲も見たくはありませんが、いきなり老人で登場した黄忠、厳顔とのイメージのギャップが大きくなった理由と思われます。そういえば黄蓋ともあまり年齢が違わないんですよね・・・。
 まさに永遠の若大将・趙雲!加山雄三、石田純一、原辰徳とならび称される素晴らしい若作りと言えるでしょう。
posted by きよくん at 16:33| 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月01日

長寿番付に挑戦!廖化

こんにちは。
今日は、前々回のもう一つのテーマ「長寿」つながり?で廖化について書きます。
 当時は今より当然寿命も短いし、また、戦場に出る武将たちはなおのこと・・・そんな中、長生きした武将としては、81歳まで生きた張昭とか、推定80歳と考えられる程イクなどが居ます。老将・黄忠は年齢不詳(!)。呉軍に突撃して玉砕した際は、70代半ばだったと思われます。
 そんな中、誰が最長寿か?
 
 少なくとも演義の上では「廖化」です。黄巾賊出身で関羽に仕えるところから、蜀の滅亡まで。80年間に渡って登場します。これ、まともに考えると100歳くらいです。これには諸説あって、同姓同名別人説もありますが、多分、演義で話を創作する中で、廖化の登場するシーンが多くなってしまって寿命が延びてしまった、つまり、日本の古代の天皇みたいな感じだと思います。ただ、史実でも、80歳は超えていたと思われます。
 ただ、さすがに80歳を超えて戦場で活躍というのは、ちょっと無理があると思います。黄忠もですが、70以上で戦場に立つのは、いくらなんでも・・・・。多分、というか、司令室みたいなところとか、後方で指示を出すくらいだとは思われます。関羽、張飛その他の豪傑においても、戦場で実際に戦うのは、大体50代が限度だと思われます。
 その意味で、ジャイアント馬場をはじめ、プロレスの御大陣には敬服します。今なら、天龍源一郎、長州力、藤波辰爾・・・50代でも活躍し続ける彼らは、疲れないのでしょうか。僕は、5分くらい小走りすると疲れますので(笑)。逆に言えば、50代でもプロレスをやれるということからして、三国時代も50代までは実際に戦闘することが出来たのではないかとも思いますが・・・。
 さて、話を廖化に戻しますと、まさに「地味ー」です。横山三国志・演義では関羽が麦城で孤立した際、劉封、孟達に救援を求めて断られ、さらに成都まで行っています。正史では、一旦呉に投降した後、自分が死んだという偽りの情報を流すという廖化らしからぬ(笑)計略を用いて蜀に戻ってます。
 その後、蜀において武の柱となり活躍しますが、廖化が主力になること自体、蜀の人材不足を表しています。惜しかったのは、北伐において司馬懿をあと一歩に追い詰めた際、冠につられて逃したこと。あれで司馬懿を討ち取っていれば、蜀の英雄となったのみならず、現代に至る中国史が変わっていた可能性があります。その意味では歴史を左右しうる人物だった、というのは面白いですね。諸葛亮は「関羽だったら司馬懿の計略を見破って追いついて討ち取ったろうに」と嘆きますが、関羽と廖化を比較すること自体、かなりの無理があります(笑)。
 さて、その後も、蜀を支え、蜀滅亡時、少なくとも80歳を超えていたのにもかかわらず、剣閣で姜維とともに鍾会と互角に戦ったのは、立派だと思います。蜀滅亡直後に死去してますが、多分、はりつめた気が抜け、はっと我に返ったら、80歳を過ぎていた体にどっと疲れが出たんでしょうか・・・。
 蜀創設時の名将と比べると小粒ではありますが、後期・衰亡の蜀を支えた功績は大きいと思います。

 なお、本当の最長寿は左慈をはじめとする仙人たちかも知れません(笑)。僕の最大目標は、約130年後の「次の次」のハレー彗星回帰を見ることです。高校1年のときのハレー彗星はしょぼかったので・・・(笑)。
posted by きよくん at 15:10| 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする